夜は、生まれも育ちも台東区という方の案内で、どぜうの「飯田屋」に連れていってもらった。私はどぜう屋は生まれて初めてだったので、相手に教えられるがまま、たっぷりのねぎとまるのどぜうをくつくついわせたものを、わあ美味しいと言いながら口に放り込んでいた。ときどき山椒や七味も振った。中には子持ちのどぜうもいた。二人前を平らげて、そろそろシメかねーということになり、ご飯を二つ、相手はそれにどぜう汁を付けた。「いいの?」と聞かれたが私は付けなかった。さて、ご飯とどぜう汁が運ばれてきて、ご飯だけを目の前に置いてもらった私は、鍋の残り汁を掬うお玉のようなものがないことに気が付いた。しかしちょっと待てば仲居さんが持ってきてくれるだろう、と思ったそのとき、相手がどぜう汁をごはんに掛けはじめた「お行儀が悪いけれど、シメはこれが美味しいんだよねー」。ご飯茶碗の中は白味噌ベースのねこまんまになっている。え、ちょっと待って。「この鍋に残った割り下をご飯にかけるのではないの?!」「ええ? そんなことは今までしたことがないし考えたこともなかったなぁ!*1」。私は、この手のメニュのシメは、例えば桜鍋のときの「あとごはん」や、お多幸の「とうめし」のようなものが相場であると、とくに疑いもせずにいたのだ。またそのようなオーセンティックな食べ物でなくても、鍋物のシメは残り汁を利用するものと決まっている、のに。どぜう鍋においてはどうやらその限りではないのだと。木っ端微塵に砕かれた予想を目の前に、自分でも驚くくらいに動揺し続けてしまった。東京に移り住んで初めてのカルチャーショックかもしれない。相手も少なからず驚いている。幼少から当然とされてきた作法の前では、すぐ脇の横道は例え太くともただの暗がりでしかなかったのか。あわわ、となりながらしかし相手がすすめてくれた、そのねこまんまをちょっともらう。美味しい。でも求めていた味覚ではない。おしぼりで薄い鉄鍋の両の取っ手をつかみ、自分のご飯茶碗の上で返す、かき込む。私が食べたかったのはこれなんだ。相手にも少し分けてあげると「これはこれで美味しいね」と言う。いや、美味しくないわけがないでしょう鍋文化の常識から言って、という私の思いをよそに「今度これをやるときは、ねぎとか終盤に投入した豆腐やごぼうを多めに残しておいたらもっといいかも」なんて提案をする。あっさり寝返ったか。このシメの飯については今後、東京生まれ東京育ちに限らずとも食べつけている人に尋ねてみたい。

*1:追記--どぜう鍋の場合においては、ということ。この人は他の鍋ものの残り汁を利用したシメに対しては疑問なく受け入れている。