(だって別段おもしろいわけじゃないしさ)日時変更に伴ってサロンも変わることになり表参道の店舗へ。なんだ、本店よりずっと広くていい感じではないか。コーヒーショップで紅茶のラテとやらを飲みながら連絡数件。久々にギャルソンを覗く、覗いて終わる。着物ショップで新古品の帯地を見せてもらう。ピンクベースに赤と白の苺柄って、いくらなんでも可愛すぎだ。和紙の洗顔タオルを購入してみる。
パンなどが売りのカフェで昼食、豚肉と玉ねぎのバルサミコなんとやら。やはりカフェにおける食事の宿命か、器も盛りつけもちんまりと(見えるだけでヴォリュームはちゃんと“一人前”だった――満腹感が夕食前まで続いたから――が、視覚的に)感じられて物足りない。店内や盛りつけが例えばビストロ的様相であったなら、この味覚不全的な感じ(「味はたぶん美味しい、とは思うんだけれど…」)も消え去るんじゃないかと想像してみる。装置に違和感無く取り込まれることのできる人が、このメニュを余すところ無く美味として吸収出来るのだろうな。カフェは往々にして敷居の低い飲食の場ではあるけれど、自分にとって不向きな店は結構多いのだということを、自覚しておけばこの先の不幸はちょっと減る。連絡をもらっていたブーツのサイズ確認。
乃木坂から歩いて試写。途中コンビニで、デメルの猫舌チョコを模したおまけが付いたペットボトル飲料があったので、可愛い半分ゴミ半分、と思いながら購入。携帯電話にぶら下げることをぼんやり想像する。この手のスウィーツモチーフのおまけの可愛らしさが今までよくわからないでいたのだ。「せっかく飲み物と一緒になってるんだから、食べられる本物を付けてくれたらいいのにな」と思っていたし、「マカロン可愛い、が心の底ではわからないということは口に出したらいけないのかも」とか「お菓子モチーフが可愛いという感覚を全共有することは出来ないが(解るところもあるけれど、にしても)、こんなご時世だしもっと主観を込めて解りたい。ああそうか、つまりそれらを可愛いと感じ入り身につけているあなた自身のメンタルが可愛いってことなんだ。これでやっと、スウィーツモチーフを目にしたときに私は『(そんなあなたが)可愛いね』と誤摩化すこと無く心から賛辞を述べられる。凝りすぎたネイルアートのほとんどが申し訳ないことに、指先に屑としか捉えることができないという事例からも似たことが考えられるように、要はその完成形ではなく、そこに至らしめる心意気に想いをはせてみることが大事なのだ」とも思っていたけれど、なんだ、自分にとっておなじみの、味が判っていて好きなフォルム(アイスクリームの木べら、診察室で舌を押さえ込むステンレスのへら、を連想させる。両者を混合したようなもの*1も存在しており、見るとフェティシズムに揺さぶりをかけられる)であるならストレートに可愛いと思えるじゃないか! 試写は期待以上に面白かった。衒いのない純愛物が自分は本当に好きなんだと思った。やれやれ。